2026年に入り、アメリカによるベネズエラへの軍事作戦やグリーンランドの領有権主張など、これまで信頼していた国の姿に疑問を抱かせる出来事が相次いでいます。「あなたがたが証ししている正義は、神の正義だろうか」と。
コリント教会には、信徒同士が争い、世の法廷に訴えるという深刻な問題がありました。背景には、風紀の乱れた町コリントの現実があり、教会が誰もが集える場所であったからこそ、さまざまな問題が持ち込まれていました。パウロはその実態を、「みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、泥棒、強欲な者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、神の国を受け継ぐことができない」(10-11節)と厳しく指摘します。しかし問題の本質は、裁判そのものではなく、兄弟姉妹を打ち負かし、自分の正しさを証明しようとする姿勢でした。パウロはこう語ります。「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」(7節)。これは弱さを勧める言葉ではなく、教会は勝ち負けで正義を示す場所ではないという鋭い問いかけです。その根底には、相手を思いやる愛の欠如があり、それこそが世々すべての教会に共通する根本的な問題です。
ミカ書6章8節「人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと」神の正義とは、関係を壊すのではなく生かす正義であり、弱い者や声を上げられない者に寄り添うものです。
パウロは「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名と神の霊によって洗われ、義とされています」(11節)と語ります。教会は、赦された者が共に生かされる場、赦しと回復という神の正義を証しする場なのです。神の正義を証しする教会とは、裁くより耳を傾け、勝ち負けより和解を大切にし、憐れみに立つ教会です。今年の一致祈祷会で取り上げられた迫害の中でも信仰を守り続けてきたアルメニア教会の歩みは、その具体例と言えるでしょう。私たちもまた、「正義を行い、慈しみを愛し、へりくだって神と共に」歩みたい。
