· 

1/25 礼拝メッセージ「私たちはキリストの体」

 Ⅰコリント6章12~20節には、「私にはすべてのことが許されている」とい

う言葉が二度出てきます。パウロはすぐに「すべてのことが益になるわけでは

ない」と付け加えていることからわかるように、この言葉はパウロの意見では

なく、パウロがその間違いを指摘したグループのスローガンです。罪がイエス

様の十字架によって赦されているからといって、どのような行いも正当化され

るわけではありません。神様が与える自由とは、好き勝手に生きることではな

く、神様との正しい関係の中で、本来の自分として生きる自由です。それは、

罪や恐れ、欲望、他者からの評価といった支配から解き放たれることです。 

コリントの教会では、ギリシャ思想の影響により、「体は霊より劣るもの」

「体で何をしても信仰には関係ない」という考え方が広がっていました。その

結果、性的な乱れも問題視されなくなっていました。しかしパウロは、「体は淫

らな行いのためではなく、主のためにある」と語り、体を軽んじるのではな

く、非常に尊いものとして位置づけます。神様は霊だけでなく、私たちの体そ

のものを大切にしておられるのです。 

 

 さらにパウロは、「神は主を復活させ、私たちをも復活させてくださる」と述

べ、体は使い捨ての存在ではなく、復活にあずかる存在であると語ります。今

の生き方はその約束と無関係ではありません。 

 

 私たちはまた、「キリストの体の一部」とされています。だから体で何をする

かは信仰と切り離せず、「自分だけの問題」と言い逃れることはできません。決

定的なのは、「あなたがたは代価を払って買い取られた」という言葉です。私た

ちは自分のものではなく、十字架の愛によって贖われた存在です。ゆえに信仰

者は、自分の体をもって神様の栄光を現すよう招かれているのです。