今、冬季オリンピックが開催されていますが、その一瞬の試合のために長い年月をかけて備え、生活や体調を整えてきた選手たちの姿に私たちは感動します。目標が明確であれば、日々の過ごし方は変わります。聖書もまた、私たちに「来るべき時」を見つめて生きるよう語ります。「その時は近い」という言葉が、私たちの時間感覚を揺さぶるのです。
エレミヤは、滅びが迫る中、特別な使命のために主なる神様から独身を命じられました。終わりが近いという理解が彼の生き方を形作ったのです。パウロも危機が迫っているゆえに現状にとどまること、独身でいる生き方を勧めます。しかしそれは結婚の否定ではなく、「この世の有様は過ぎ去る」ゆえに、地上の営みに縛られすぎず、より自由に主に仕えるためでした。大切なのは結婚か独身かではなく、心が主に向いているかどうかです。
私たちは、主の十字架から2000年を経ても終わりが来ていないと思うかもしれません。しかし聖書の語る「終わり」は暦の問題ではなく、イエス様の十字架と復活によってすでに始まっています。明日が保証されている人はいません。少子高齢化や環境悪化が示すように、私たちの社会も決して永続的ではありません。だからこそ聖書は今も「目を覚ましていなさい。主に向かって生きなさい」と呼びかけます。時の理解が生き方を決めます。
世界が永遠に続くなら安定や成功を第一にするでしょう。しかし過ぎ去る世界だと知るなら、神様との関係こそが永遠に残ると気づきます。パウロは、信徒を束縛するためではなく、品位をもってひたすら主に仕えるよう願いました。
そして何より、私たちが主に向かう前に、イエス様が先に私たちに近づいてくださいました。終わりの日は恐れではなく救いの完成への招きです。「定められた時は迫っています」という言葉は、今日という日を大切に生きるための励ましです。今日、主に従い、愛し、祈る。その積み重ねが、主に仕える人生となるのです。
