コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章は、使徒パウロが自分自身の立場について語っている箇所です。パウロは、キリストの福音を伝える使徒であると主張します。しかし当時、パウロを本当の使徒として認めない人々もいました。もともと彼は、キリスト者を迫害していましたが、ダマスコへ向かう途中で復活のイエス様の声を聞き、回心したのですが、エルサレムに来た時、弟子たちは彼を恐れました(使徒9章)。その後もパウロの働きは、ペトロたち12弟子とは少し異なるものでした。彼らは神殿に通い律法を守るなど、ユダヤ教的生活を続けていましたが、パウロは福音を異邦人に積極的に伝え、割礼の必要もないと語りました。ローマ市民権を持ち、ラビから教育を受けたパウロは、強い精神で伝道旅行を続け、時には他の使徒と意見を異にすることもありました。そのため「本当に使徒なのか」と疑う人もいたのです。もともと使徒とは「福音を告げ知らせる者」という意味であり、バルナバも使徒と呼ばれました。この言葉が特別な称号として用いられるようになる過程で、こうした混乱が起こったのです。
こうした疑いに対してパウロは、「少なくともあなたがたにとって私は使徒ではないか。あなたがた自身がその証拠だ」と語ります。そして、自分には使徒として生活の支えを受ける権利があるのに、それを求めてこなかったではないかと訴えます。兵士が自費で戦争に行かないように、ぶどう園を作る者が実を食べる権利を持つように、福音を宣べ伝える者も支えを受けてよいはずです。しかしパウロは、福音の妨げにならないよう、その権利を自ら放棄しました。そこには、主の福音のために働いているという誇りがありました。
ある老牧師が長年の海外宣教を終えて帰国した時、誰にも迎えられず落胆したという話があります。しかし夢の中で、天の国では大歓迎される光景を見て、自分の働きは無駄ではなかったと確信したといいます。パウロもまた誤解や中傷の中で苦しみながら、なお福音のために忍耐しました。
私たちの信仰の歩みも同じです。時に不満や愚痴が出ることもありますが、福音のために耐え忍ぶ時、それは主の訓練となります。主なる神様は私たちの歩みをすべてご存じであり、最後には迎えてくださいます。
