この聖書箇所は、聖餐について記しています。聖餐は教会でなじみ深いものです
が、どのような背景で語られたのかを知ることで、その意味はより深く見えてきま
す。イエス様の時代の食卓はとても質素でした。平たいパン、オリーブ、魚、レン
ズ豆のスープ、そして薄めたぶどう酒。そのような庶民の食卓の中で、主の晩餐は
行われました。イエス様は「これはあなたがたのためのわたしの体である」と語ら
れました。教会によってパンとぶどう酒の理解には違いがありますが、共通してい
るのは、聖餐がイエス様の十字架を思い起こすものであるということです。食事は
単なる栄養補給ではありません。「同じ釜の飯を食う」という言葉があるように、共
に食べることは、共に生きることを意味します。しかし、コリント教会では、その
食卓が壊れていました。裕福な人は先に来て豊かな食事をし、貧しい人や奴隷たち
は仕事の後に来るため、食べ物が残っていない。ある人は空腹で、ある人は酔って
いる。その結果、主の晩餐が分裂の場となっていたのです。パウロは、「あなたがた
の集まりは益にならず、かえって害になっている」と厳しく語ります。本来、パン
を裂くとは分かち合うことです。しかし彼らは、パンを裂きながら交わりを裂いて
いました。イザヤ書には「飢えた人にあなたのパンを裂き与えよ」とあります。神
様は形式だけの礼拝を喜ばれません。礼拝を守っていても、隣人への愛がなければ、
それは神様の望まれる礼拝ではないのです。
これは現代の私たちにも向けられた言葉です。孤独な人、悲しんでいる人、苦し
んでいる人を見過ごしていないでしょうか。パンとは食べ物だけではありません。
時間や優しい言葉、祈りもまた、分かち合うべき「パン」です。イエス様は、弟子
たちだけでなく、取税人や罪人、時には敵対する人々とも食事を共にされました。
そして何より、イエス様ご自身が裂かれたパンとして、私たちのために命を与えて
くださいました。主の晩餐は、その生き方を思い起こす時です。「取って食べなさい」
という言葉には、「あなたもこのように生きなさい」という招きがあります。
豪華な食卓でなくてもよいのです。小さなパン一つ、言葉一つ、祈り一つを分か
ち合うところに、神様の食卓があります。イエス様の時代の小さな食卓から福音が
広がったように、今日も私たちの教会から愛が広がっていくことを願います。
