このみ言葉は、先週に引き続き聖餐について語られた箇所ですが、「ふさわしくないま
まで食べる者は罪を犯す」という厳しい言葉が印象に残ります。しかしこれは、完全な
人だけが聖餐にあずかれるという意味ではありません。もともとコリント教会では、裕
福な人が先に食事をし、貧しい人が取り残されるという分裂が起きており、その姿への
警告として語られた言葉でした。つまり「ふさわしさ」とは、神の前での完全さではな
く、隣人への配慮や愛の有無を問うものなのです。罪人であり弱さを抱えた私たちだか
らこそ、主イエス様の恵みにあずかる必要があります。
同時に、聖餐は特別な力を得るためのものではなく、主の十字架を記念する象徴です。
その意味を正しく受け止めるためにも、洗礼を受けて信仰を告白することには大切な意
義があります。聖餐とは「イエス様が共におられる食卓」であり、最後の晩餐において
も、裏切るユダや逃げ出すペトロを含め、主は誰一人排除されませんでした。だからこ
そ聖餐は「完全な人の席」ではなく、「赦された罪人の席」なのです。
また、イザヤ書 58 章でも同様に、神様は形式的な信仰ではなく、苦しむ人への具体的
な愛を求めておられます。どれほど熱心に礼拝しても、隣人に無関心であれば、それは
神の御心から離れてしまいます。現代は孤食の時代とも言われ、孤独になりやすい中で、
教会の食卓は「あなたは一人ではない」と伝える場であるべきです。
またパウロが語る「自分を確かめる」とは、自分の罪を神経質に点検することではなく、隣人を愛しているかを問い直すことです。自分だけ満たされようとしていないか、弱い人を置き去りにしていないかを省みることが求められています。主イエス様は、罪人や
孤独な人と共に食卓を囲み、その交わりを通して神の愛を示されました。食卓とは受け
入れのしるしだからです。
私たちの教会もまた、弱い人が安心して来られる場所、孤独な人が居場所を見いだせ
る場所へと招かれています。主イエス様はご自身を裂いてまで私たちを一つにしようと
されました。その招きに応え、「共に食べ、共に生きる」歩みへと導かれていきたいと思
います。
