引き続き「異言」と「預言」の問題について。言葉は相手に伝わって初めて意味
を持ちます。外国語だけで話されている場所で何を言っているのか分からず困った
経験があるように、理解できない言葉は相手の助けになりません。
コリント教会では、異言を語ることが信仰の優秀さのしるしのように考えられ、
多くの人が礼拝で異言を語ったため、誰にも内容が分からない状態になっていまし
た。異言とは、聖霊によって与えられる特別な祈りや賛美の言葉ですが、パウロは
「理解できない言葉だけでは教会の益にならない」と教えます。
そのためパウロは、笛や琴、ラッパの例を用います。楽器の音程が不明瞭なら曲
が分からず、ラッパの音がはっきりしなければ兵士は行動できません。同じように、
言葉も相手に理解されてこそ役割を果たします。
しかし、パウロは異言そのものを否定しているわけではありません。彼自身も異
言を語る人でした。それでも「教会では、一万語の異言よりも、他の人を教える五
つの言葉の方がよい」というのです。大切なのは自分が満足することではなく、相
手が神様の愛を理解し、信仰に励まされることだからです。
この教えは私たちの日常生活にも当てはまります。夫婦や親子、友人との会話で
も、「伝えたつもり」でも相手に伝わっていないことがあります。難しい言葉や専門
用語よりも、相手が理解できる言葉で語ることが大切です。
イエス様も、農夫や羊飼い、パンをこねる女性など、人々の身近な例えを用いて
神の国を語られました。それは、人々に神様の愛を理解してほしかったからです。
私たちが語る目的も、自分の知識や正しさを示すことではなく、相手を励まし、生
かし、神様の愛を伝えることにあります。神様から与えられた賜物は、教会を建て
上げるために用いるものです。
そして何より、神様ご自身が私たちに分かる形で語りかけてくださいました。神
様はイエス様をこの世に遣わし、十字架と復活によって救いの愛を示してください
ました。その恵みに感謝しながら、私たちもまた、相手に届く言葉を語り、神様の
愛を伝える者として歩んでまいりましょう。
