異言と預言について。異言の起源は、ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降り、
人々が様々な国の言葉で神様を賛美した出来事にあります。また使徒言行録には、
異邦人やエフェソの信徒たちが聖霊を受けて異言を語ったことも記されています。
一方で、旧約聖書にも神様の霊が人々に注がれる出来事が数多く記されています。
モーセと共に働いた七十人の長老たち、怪力を与えられたサムソン、預言者のよう
になったサウルやダビデなどです。これらを見ると、神様の霊を受けることは、人
に神様のために用いる特別な力や働きが与えられることだと分かります。
ただし、「聖霊が注がれること」と「異言を語ること」は同じではありません。聖
書によれば、聖霊はすべての信仰者に与えられますが、異言はすべての人に与えら
れるわけではありません。人はしばしば不思議な力や特別な体験に憧れますが、聖
霊の働きはそれだけではありません。聖霊は私たちにイエス様を主と告白させ、祈
りへ導き、聖書を理解させ、愛や喜びなどの実を結ばせ、教会を一つにしてくださ
います。私たちが信仰を持ち続けられるのも、聖霊の働きによるのです。
パウロはコリント教会に対して、「皆が異言を語るだろうか」と問いかけました。
当時の教会には競争や派閥争いがあり、人々は目立つ賜物を誇ろうとしていまし
た。しかしパウロは、異言も数ある賜物の一つに過ぎず、それ以上に教会を建て上
げ、人々を励まし、神様の愛を伝える預言の賜物が重要であると教えます。そして
何よりも大切なのは、13章で語られた「愛」です。そのためパウロはこの14章
でも「愛を追い求めなさい」と勧めるのです。
ペンテコステの異言の本当の意味は、不思議な言葉そのものではなく、福音が民
族や言語の壁を越えてすべての人に届けられることにありました。ペンテコステの
中心は異言ではなく聖霊です。聖霊は弟子たちを恐れから解放し、福音を大胆に語
らせました。そして同じ霊が、今も私たちにも注がれています。
教会は一つの体であり、一人ひとりが大切な部分です。目立つ賜物だけが尊いの
ではありません。それぞれが与えられた役割を果たし、互いに支え合うことで教会
は建て上げられます。神様は私たち一人ひとりを通して働いてくださるのです。
